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ピンク映画の監督をしていたが、AV監督としての活動にシフトしていた1991年の頃の望月六郎監督が「映画の夢を捨てられないAV監督の主人公が葛藤する」こと、それ自体をテーマにして、実際に映画を一本、作り上げてしまったのが本作である。
観客にとっては、映画作り未満の主人公の心理を、すでに完成し世に送り出された映画で目の当たりにするというパラドックスが、本作にはある。
石川欣演じる劇中の主人公もまた、普通だったら商業作品の題材にならないような、ごく身近な自分自身の体験を映画にしようとしている。それは現在の妻になる女性と、もう一人の女性との間で揺れた青春時代の記憶を背景にしている。資金集めに知己を頼るが「まだ自叙伝には早い」とにべもない対応をされる。
デジタルで自主映画が安価に作れるようになった現在でこそ、若者が自分探し的な作品を撮ることはそんなに珍しくないが、当時はそれなりの人生経験がある者でなければ、自伝的な映画などはやるべきではないというムードが普通だったのだ。
とはいえ、公開当時20代でまだ社会人経験もろくになかった観客の自分にとって、かつてフィルムで映画を撮っていて、いまは自分でAVのプロダクションを興し、共同経営者である妻との間に幼い子どもがいる……という主人公の立場は、まぶしく、たくましく、カッコよくさえ見えたことは確かだ。
過去が幻想化していく時代
2023年の時点で本作を見返してみると、主人公がまだ30過ぎの年齢で、その風貌には若さや、あどけなささえうかがえることに気づいて驚かされる。
当時アダルトビデオ業界は、若い人材が一本立ちして活躍できる新興のフィールドであったのだ。
だが主人公は、唐十郎のテント芝居に通ったり、解散したはちみつぱいの音楽に心の居場所を感じ、自主映画に自らの恋を託したりという「お金にならないロマン」をも引きずっている。これらの文化は、望月監督の世代より前の、団塊世代がドンピシャの文化も混じっている。望月監督の世代は、新しい世代でありながら前の世代の残り香を嗅ぐことが出来たポジションなのだろう。前の世代が残した文化が、学生運動世代である当事者のような生々しい時代の記憶よりは、半ばイリュージョンと化しているともいえるかもしれない。
時代の断面という観点でいえば、もう一つ、こんな場面がある。幼い一人娘が、目を離した隙に、公園で見知らぬ青年と砂遊びしている場面に遭遇して、その青年を激しく叱咤する主人公の場面だ。彼は「いまはそういう(ことが許される)時代なのかよ!」と青年に詰め寄るが、これは本作の公開時にはその衝撃の余波が残っていた、宮崎勤という青年による「幼女連続誘拐殺人事件」のことが背景にあると思われる。
「おたく」の青年が現実の美少女を手にかけてしまう。そんな病理に性産業としてどこか自分も加担しているのではないかというやましさ。そしてその余波が自分の娘という大切なプライベートに及ぶかもしれない時、ブチ切れてしまう動揺。
監督として、自らの経験から男女の心理の綾やそれが交錯する機微に目を向けたAVを作ろうとする主人公だが、求められるのは道具に対するフェティッシュであったり、性癖的な傾向に寄った作品であったりすることにも、戸惑いを隠せない。
アダルトビデオという「現実」
生活上の現実と、内面のロマンが対立するというのは、文学的なテーマとしては古典的なものと言えるが、その主人公が「アダルトビデオ業界の人間」であるということが、この映画が作られた時代と現代とでは、やや意味合いが違って捉えられる部分かもしれない。
AV新法によって、いまアダルトビデオ業界は、商業的に成り立つかどうかの瀬戸際にさらされている。社会的にも性暴力、性搾取の現場そのものであるかのように言われ、良識による攻撃にさらされている。法的な規制はますます厳しくなるかもしれない。
だがこの映画が作られた頃の主人公にとっては、AVこそが生計を成り立たせるという意味での「正業」であり、ゆるぎない「現実」であったのだ。
この映画がもしAV業界の外の人間によって作られていたなら、ひょっとしたら、AVの世界での「性の現場」の非日常性にスポットが当たっていたのかもしれない。
だが本作が主人公を通して描く「AV」は、劇中牛丼屋にたとえる場面があるが、いかに儲かる作品を継続的に量産していくのかという事を第一にしている。そんな「仕事のハードボイルド」ともいえる主人公の一方での態度は、石川欣の良い意味での硬質な演技と相まって、映画を小気味よいものにしている。
大切なものだから思い出せない
であるからこそ、彼が過去の自分が求めていたはずのものへの「形にならないロマン」をたどろうとする、ある種のとりとめのなさが心に残る。
たとえばかつて好きだった女性の住まいの近くに部屋を借り、一緒に聴いたであろうはちみつぱいの音楽を大音響で流しながら自主映画のシナリオを書くくだり。
仕事上のパートナーに自分の思いのたけを留守番電話で一方的に話すくだり。
これらは、初めてこの映画を見て以来、ずっと心に残っている場面だ。
自分でも、自分がなにを探しているのかわからない。そんな、どこにたどり着くかどうかもさだかでない思い。
そういう曖昧なものであっても、行動の契機になるし、してもいいんだということを、私はこの映画がから教えられた気がする。
存在が吊り合った時間
この映画はやがて、主人公が妻ともう一人の女性の間で揺れてしまった過去を「伊豆の踊子の宿」という、映画史ともリンクするひとつの磁場で集約的に昇華しようとする。川端康成が寄宿し、『伊豆の踊子』が映画化されるたびにこの宿が使われている経緯がある。川端の筆になる、青年の美少女へのかなわなかった恋が、同じ場所で何度も反復されている特異点のような場所なのだ。
そこに一人籠っていた主人公を妻が訪ねてくる。過去の会話がシナリオになった文面の読み合わせをしながらのラブシーンは、母性そのもののような妻役・八神康子の表情とともに名シーンとなっているのは、この映画を見た人なら異論はないであろう。
だが私はそのクライマックスとすら比肩し得るものとして、「伊豆の踊子の宿」の近くにある居酒屋で、宮下順子演じる、その場面だけ出てくる「女将さん」と雑談するくだりを名シーンとして挙げたい。
『伊豆の踊子』の山口百恵は原作のヒロインがまだ未成年の少女であるという設定とは違っているという主人公の指摘に、女将さんはこう答える。
「そこはいいのよ!誰だかわかんない女より、百恵ちゃんの方が友和だって喜ぶに決まってるじゃない」
ある意味、どうでもいい会話である。しかしここで、主人公は、映画の歴史が文学の歴史と交叉し、かたちを変えて偏在していることを実感し、自分もその中に居ることに、存在が「吊り合った」実感に浸っているように、私には思えた。
そんな時間があれば、人は生きていける。
最後、主人公が撮りたい映画を実現することが出来たのかどうかは、劇中では明かされない。だが彼がAV監督として、時に実現不可能ともいえる企画を口にしたりもしながら、今日もカメラ片手に現場に取り組む姿は、爽やかにも感じられる。